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第二話「帝国」

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【3】

 目覚めた時、フェリクスはあまりの眩しさに目を焼かれるかと思った。


  「お目覚めですね?」


 頭上の方から、ローズマリーの声がしていた。
やがて目が慣れると、そこが与えられた<客室>の中だとわかった。
薔薇を飾った窓は開け放されており、空は傾きかけた夕日に赤く染まっていた。
赤い陽射しが、立ちのぼるシャボンの泡を七色に輝かせている。


  「!」


 シャボンの泡の出所を確認して、フェリクスは面食らった。
自分の体が肩から足の先まですっぽりと、泡だった湯船につけられているのである。


  (一体いつの間に、眠って……?
   そんな……? ついさっきまで、広場の<皇帝>の演説を聞いていたはずだ!)


 腕と背中と頭に触れる、柔らかい女性たちの手を感じて、フェリクスはハッとした。
ローズマリーを含め、三人の美しい娘が優しい手つきで、フェリクスの体を洗っているのだ。

 驚きのあまり声もないフェリクスに、ローズマリーが説明する。


  「あなた様が<客人>として来られて、二ヶ月――いえ、三ヶ月近くになりますか。
   とにかく長い間、あの石牢に閉じ込められておられたのです。

   汚れを落とし、体を良くほぐしませんと、今宵の<お役目>に支障をきたすということです。
   ですので、今しばらく眠っていただきますわ……」


 ローズマリーがフェリクスの顔へと、香水の瓶を差し向けていた。
甘い薔薇の香りの中に、微かに催眠性の薬剤の匂いを嗅ぎ分け、フェリクスは顔を背けた。


  「ま、待ってください! 後は自分でさせてください!」

  「いいえ。これは<任務>ですので。おとなしくしていただかなければ……」


 従わないなら力ずくでも、そんな気配さえ感じられる気迫のある声だった。


  「けして逃げないと誓います」

  「ここは<あちら側>とは違います。<神々>に誓われても信じられませぬ」

  「では……。では、<トルーフィールド村>に――」

  「<トルーフィールド>……?」


 ローズマリーが驚き、形の良い眉をそっとあげた。


  「ご存知の通り、今は<帝国領>ですし、跡形もないのでしょうが……。
   私の、ふるさとなのです」


 懐かしい故郷のその名を声に出し、フェリクスの目元は優しく緩んだ。
その優しい目が、遠い過去を追いかけるように、広場に面した大きな窓の外へ向けられる。
赤く染まった石積みの町並みには、子供たちの元気な声が響いている。

 おもちゃかお菓子でも奪い合っているのだろうか。幼い兄と妹の言い争う声が聞こえてきていた。
と、間もなく母親の怒鳴り声が響き、兄妹がそろって泣き出している。

 フェリクスの心には、故郷の村を駆け回る子供たちの姿が思い起こされていた。


  (<帝国>といっても、人の営みはそう変わるものではないのかもしれない)


 目を細めて暮れていく町並みを眺めるフェリクスを見て、ローズマリーがため息をついた。


  「わかりました……。もうこれは使いますまい」


 ローズマリーが香水の瓶を脇にやって、頭を下げた。
残るふたりの娘もそれぞれに頭を下げたが、三人ともバスルームから出るつもりはないらしい。
窓と出入り口を塞ぐ位置に陣取ると、気配を消してフェリクスを見守っている。

 フェリクスは急いで体と頭を洗うと、差し出されたタオルで体を拭き終えた。
用意されていた質素な洋服に着替え、長くなってしまった髪を簡単にまとめる。

 故郷の村に誓った手前、フェリクスはおとなしく三人娘の案内に従った。
館を出ると、六頭立ての立派な馬車がフェリクスと三人娘を待っていた。

§ § § § §

 夜空に輝く星座を連ねたような眩いシャンデリアの群れが、<大広間>を隅々まで照らす。

幾千もの宝石燭台には、魔法で色付けした七色の炎が揺らぎ、
フロアにひしめく数百名もの招待客のそれぞれに、七色の美しい影を添えている。


  (すごい――)


 夜もふけてから、三人娘の案内で<帝国城・大広間>へと招かれたフェリクスは、
その圧倒的なきらびやかさに、ただただ唖然とするばかりだった。

 煙草を燻らせ、狩猟の話に花を咲かせる年配の紳士たちや、
夏らしく透け感のあるドレスを互いに褒めあう若い婦人たち。

 その婦人たちを笑わせようと表情豊かに語りかける若者たちと、
レースの扇子の影で人々の噂話に夢中な貴婦人たち。

 給仕の女性たちが、揃いの長いヴェールを薄雲のようになびかせて、
それら紳士淑女の合間を縫っては、赤や紫やオレンジの果実酒を薦めている。

 そこにはあらゆる年代の人々がおり、この場の雰囲気を様々に楽しんでいた。

 香ばしい肉料理の匂い。果実酒のさわやかな香り。淑女たちの香水の匂い。紳士たちの煙草の煙。

 様々な光と色彩、香りと音が、ない交ぜとなった空間は、人々の放つ熱気に包まれている。
その熱気に気おされ、フェリクスは眩暈を感じるほどだった。


  (こんな華やかな場に私を連れてきて、一体、何をさせるつもりなんだ?)


 フェリクスは、傍らの席に座る三人娘をちらりと見やった。
三人娘はフェリクスに<帝国>の郷土料理などを薦めながら、自身も食事を楽しんでいるようだった。

 だが、彼女たちもあの赤いマントの魔道師隊と同じ、監視役なのである。
外の様子もうかがえない監獄よりは数段ましだが、相変わらずフェリクスは囚われの身であり、
そしてフェリクスの運命は、<神々>を<法王庁>の捏造と言い切る<皇帝>の手に握られている。


  (<帝国・皇帝>のいう<お役目>とは、なんなのだろうか……?
   わからない……。一体、<皇帝>は、私に、何をさせようというのだ?)


 思い悩むフェリクスの脇を、小さな風が駆け抜けた。
幼い兄弟がリンゴの形そのままを生かした、愛らしいケーキを奪いあって駆け回っている。

 すぐに母親らしき夫人が飛んできて、フェリクスに一礼した。
母親は兄弟の襟ぐりを掴んで、まっすぐに立たせると、小さな頭を扇子でぽんぽんと叩いていく。
その光景に、フェリクスは頬を緩めた。


  (本当に、子供たちはどこも変わらないな……)


 すると、急に耳から、音が遠ざかっていくように感じられた。

 沸いていた広間が端から静まっていく。
先ほどまでの熱気がすうっと引いて、まるで室温が数度下がったようだった。
肌寒ささえ感じ、フェリクスは息を呑んだ。


  (この様子は……!?)


 昼間見た広場の光景を思い起こし、フェリクスは今にも震えだしそうな自分の両肩を抱いた。

 友人たちと朗らかに談笑し、料理や酒を楽しんでいた人々が、いっせいに息を殺していた。
人々が頭を垂れて造る道、その真ん中を、一人の男が悠然と歩いてゆく。フェリクスは目を見張った。


  (この人物だ――。この人が――、<帝国・皇帝>!)


 年のころは、四十半ばだろうか。
ところどころ銀髪となった黒髪は、獅子の鬣のようにたなびき、
風を切る幅広の逞しい両肩からは、たっぷりとしたマントがはためいている。
その色は、まるで夜の海の色。青味がかった美しい黒色だった。

 その人物は、艶のない鉄(くろがね)の甲冑を鳴らして、広間の中央へ颯爽と歩み出た。

 切れ長の瞳が、ゆっくりと広間を見渡していく。
傷跡の残る引き締まった顔には、数々の戦場を経た軍人ならではの独特の余裕が感じられた。

 <皇帝>の姿に、人々は膝を折り、背をこごめて、一段と深く頭を下げた。
耳に痛いほどの静けさを感じ、フェリクスも身じろぎひとつ出来ない圧迫を感じていた。

 完全なる静寂が場を支配した。時さえも凍ったような空間に、<皇帝>の声が渡っていく。


  「諸君、夏の夜の宴を楽しんでおるようだな――」


 <皇帝>は、唇の片端を僅かに釣り上げ、上品な笑みをたたえていた。


  「先ごろ、我が娘、<皇女ロズマリン>が、重大な病に倒れたのは皆も知っておろう。
   しかし、今、こうして<皇女>は皆の前に姿を見せるまでに回復した」


 <皇帝の声>に導かれ、広間の一角に一人の少女が現れ、深々と礼をした。
顔を覆うレースのヴェールの上に、豪奢なドレスの上に、散らした宝石が星のように瞬いている。
頭から足先まできらきらと輝くその姿は、まるで光の精霊のようであった。
光輝く少女は、深く頭をさげたままの姿勢で、静かに佇んでいた。


  「<皇女>が命を取り戻した。これは、ある者の働きによる――」


 三人娘が音もなく席から立ち上がっていた。潮が引くように、辺りの人々がさっと身を引いていく。
気づけば、人々が退いて出来たぽっかりとした空間に、フェリクスはただひとり取り残されていた。


  「<皇女>の生命の危機を救ったのは、彼だ――。
   <法王庁・第一級神官フェリクス・フェアランド>――!」


  「!!」


 <皇帝>が高らかに宣言し、その腕をフェリクスへと差し向け、振り返っていた。
<皇帝>の射るようなまなざしに圧倒され、フェリクスはよろめくようにして席を立った。
その脇をそっと、ローズマリーが支えてくれる。

 広間中の人々が頭をめぐらせ、フェリクスを見つめた。
何百という視線が、フェリクスへと集中していく。


  「<皇女>は、いずれは我が<帝国>を治める者――。
   すなわち、我らが<帝国>の未来、そのものである。

   いもしない<神々>を捏造し、人心を操る<法王庁>の罪は許しがたい。
   だが、我らが<帝国>の未来を救った、その事実は重んじるべきであろう。

   よって、<皇女>の恩人、フェリクス氏を我が<客人>として<帝国>へ迎え、
   彼の指導の下、宗教色を廃した形で<千年祭>を執り行うこととした。

   そのための<帝国・千年祭>でもある。
   諸君らの胸には、そのこと、しかと留めておいて欲しい。

   では、諸君! <帝国人民>のために――!」


  「<帝国人民>のために!」


 <皇帝>が杯を掲げると、人々も手にしたグラスを掲げた。
フェリクスも三人娘に杯を渡され、一気に飲み干すようにと小声で助言された。
場の雰囲気に圧倒され、わけもわからず杯を空ける。

 すると、老紳士に声をかけられた。


  「あなたが<ロズマリン姫>の病を――?」

  「<法王庁>の医療技術なのでしょうか?」

  「<陛下>の<客人>は、我々の<客人>です。
   いかがです? あちらのテーブルで共に食事を……」

  「それは素晴らしいですな! 私もぜひお話をうかがいたい!」


 次々と声をかけられて、フェリクスは戸惑った。皆、<皇帝>の言葉を信じきっているのか、
柔らかく微笑む顔には<皇女>の命の恩人への、惜しみない感謝の念が浮かんでいた。


  「さあ、どうぞこちらへ。一緒に語らいましょう!」

  「私は……」


 言葉に詰まったフェリクスの腕を、ローズマリーが取った。


  「フェリクス様は、<帝都>までの長旅で、大層お疲れになっておいでです。
   お話はいずれまた。では――」


 しかし、広間はもう、フェリクスを中心とした熱狂の渦であった。
皆、一声でも<皇女>の命の恩人と言葉を交わしたいと、フェリクスに向かって押し寄せている。


  「お任せください。御身はお守りしますゆえ……」


 早口に告げるローズマリーに手を引かれ、フェリクスはその混雑の中に踏み込んでいた。

 三人娘は人々の動き、その呼吸というようなものを掴んでいるのか、人々の波を読んで、
押し合う人々の合間合間に時折できる僅かな隙間へ、巧みに身体を割り込ませては、
フェリクスを外へと誘導していく。

 三人娘のおかげでフェリクスは肩をぶつけることすらなく、風のように人ごみを渡ることが出来た。

 広間を出るとき、フェリクスは<皇帝>へと振り返った。
<皇帝>その人は<皇女>へと歩み寄り、その肩を抱いて去っていくところであった。
青みがかった黒いマントがはためいて、<皇女>の眩い後ろ姿はいっそうに際立ち、
内側から光が満ち溢れるようであった。