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第二話「帝国」

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【1】

  「<神々>よ――。
   どうかマリーが無事でありますように――。そして――」


 フェリクスは祈りを捧げていたが、思うように集中できなかった。


  (あれほど来たかった<帝国>――。
   その<帝国>へ、こうして、入れたというのに……。こんな形でなんて……)


 フェリクスは暗がりの中、小窓から入る僅かな光を見上げていた。
ここに連れてこられて以来、その光に祈りを捧げるのがフェリクスの日課となっていた。

 そこはカビの臭いの立ち込める、暗く、陰鬱な石の独房であった。
暗がりの中、あの事件から何日がすぎただろうかと、フェリクスは思う。

 時折、誰かがやってきて堅いパンの切れ端や、水の入った器を置いていく。
足音がかすかに聞こえると、床の上ぎりぎりにある細長い隙間が音もなく開き、
パンと水が置かれた盆が差し入れられる……といった具合だ。

 窓は、今見上げているもの、ひとつだけだった。
天井すれすれに開いた窓は、フェリクスの背の三倍ほども彼方にある。
細長い穴で、子猫すら通れないように思えた。窓というよりは、外気をいれるための空気穴だろう。
だが、この部屋にある明かりといえば、あの遥か彼方に薄く差し込む光のみなのだ。

 壁を登って窓から外を見ようにも、壁には石や煉瓦を組んで出来るような継ぎ目の類が一切ない。
それどころか扉すらないのである。まるで巨大な岩をくりぬいて、その中に部屋を作ったようだった。


 フェリクスは、<七つ村>で魔道師隊に捕まった時のことを思い起こしていた。
共に囚われたはずのあの、<七つ村>の少女のこともわからなかった。

 フェリクスは深いため息をついた。


  (あの少女は、どうしているだろうか……)


 せめてイアンが待つ所まで走らすことができたなら、少女は助かったかもしれない。
何度も逃げろと叫んだが、少女は呆然と立ち尽くしているばかりだった。


  (故郷の全てを一瞬で失ってしまったんだ。無理もない……。

   それに、あの少女――全身を包帯で巻いていた。思うように動けないのかもしれない。
   ちゃんとした手当てを受けられていれば良いのだが……)


 フェリクスは額に掛かる髪を払って、まっすぐに天井を走る白い光の筋を見上げ続けた。


  (ああ……。いつまでこんな日が続くのだろうか……)


 ため息をついたフェリクスの耳に、かすかな靴音が聞こえた。差し入れの時間だった。

 床ぎりぎりに開いた穴から、すうっと盆が押し込まれる。
フェリクスは手早く盆をのけ、床に這いつくばると、腕も通らない細い隙間へ向かって顔を寄せた。


  「そこにおられる方……、どうか、お願いです!
   私の話を、聞いていただけないでしょうか?」


 だが、フェリクスの眼前で隙間は音もなく閉ざされた。


  「待ってください! どうか!」


 隙間を叩いて呼びかけるが、微かな足音はゆっくり遠ざかっていく。

 もう幾度となく試し、無駄だったことだった。いまさら強い落胆など感じはしない。
だが、日々訪れる小さな失望は、この数十日の間、静かに積み重なってフェリクスの心を重く塞いだ。

 重い心に引きずられ、体までもが鉛のように感じられる。
だるい腕を無理やり持ち上げて椀をとり、口を寄せ、水をすする。
外の熱気にさらされてきたのか、水は生暖かくどろりとしていて、思わず吐き戻しそうになる。


  (だめだ。しっかり食べなければ……)


 フェリクスは自分に言い聞かせて、生温い水を一口だけ飲み込んだ。
硬いパンをちぎっては口に運ぶ。一口、また一口……。無限とも思える行為を続けていく。

 やがてパンには、歯ごたえもなくなる。それでもフェリクスは何度も何度も噛み締め、
ざらりとしたパンの感触が口の中からすっかりなくなるまで、それを飲み込まずにいた。


  (せめて食べることには、集中しなければ。いつでも、動けるようにしておくんだ……)


 そう強く自分を叱咤する。いつ来るともわからない交渉の機会、あるいは脱出の機会。
自分から動いてそうした機会を作れないのであれば、訪れるチャンスを最大限に利用できるよう、
備えておきたかった。

 だいぶ時間をかけて、パンの半分ほどをたいらげたときだった。
パンをちぎろうとしたフェリクスの指先が、異質なものに触れた。
ゴミでも混ざりこんでいるのだろうかと、フェリクスは思った。

 指で探り、それを引っ張り出して、フェリクスの顔色が変わった。
それは、硬く巻かれた<紙片>であったのだ。

 フェリクスは耳を澄まし、外に足音がないのを確認すると、急いで<紙片>を開いてみた。
だが、明かりの射さないこの独房では、<紙片>に書かれた細かい文字を判別することなど、
到底不可能であった。


  (だめだ。こんな暗がりでは……、とても読むことなど……)


 大きな絶望が身体を支配したが、フェリクスは激しく首を振って、その支配を免れようとした。


  (いや、あきらめないぞ、私は……。

   牢の外には、このメッセージを私に伝えたがっている誰かがいるということなんだ。
   外と交渉するチャンスなのかもしれない!

   フェリクス、考えるんだ……。どうすれば、この文字を読める……?)


 折れ掛かる心に鞭を打ち、フェリクスは天井を見上げた。小さな窓から放たれ、
天井のすれすれを走る、まっすぐな光。太陽がめぐり、その光がどんなに角度を下げてきても、
その光がフェリクスの手の届く範囲を照らし出すことは、けっしてなかった。


  (でも、あれが、この閉ざされた空間、唯一の光なんだ……)


 フェリクスは、丸まった<紙片>を丁寧に伸ばした。
手のひらの間に<紙片>をはさみ、手のぬくもりを伝えるように、ゆっくりと力を加えていく。
丸まろうとする紙の癖が完全に抜けきるまで、フェリクスはその作業を慎重に繰り返した。

 それからフェリクスは、食べ残した半分のパンを木の椀の底で削って、さらさらの粉を作った。
その粉と、独房の隅に溜まった泥、そして生温い水をごく少量混ぜ、よく練り込んでいく。

 ペースト状になったそれを、小指の先、半分ほどの大きさに丸める。
平らになった<紙片>の四隅に、丸めたペーストを均等に配置し、貼り付ける。


  (よし……、これで……)


 フェリクスは再度、独房の外に足音がないことを確認してから、
ペーストを縫った<紙片>を、天井へと高く投げ上げた。

 ペーストの重しが<紙片>をまっすぐに伸ばし、<紙片>は平らになってゆっくりと降りてくる。
天井を走る光が、<紙片>を一瞬だけ照らし出す、その僅かな瞬間にフェリクスは目を凝らした。


  (一行目は……、数字……。<4>……、<11>……。おそらく日付か……)


 落ちてきた<紙片>を受け止め、フェリクスはもう一度、それを天高くへと投げ上げる。


  (二行目の頭は……、<神官>……、<F>……、<e>……、<l>……、フェリクス……?)


 自分の名前を読み取って、もう一度、<紙片>を投げる。


  (二行目の終わりは……、<神官>……、<I>……、<a>……、イアン……、シル……?)


 不安を感じながらもフェリクスは<紙片>を投げた。


  (三行目は……、<死>……?)


 読み取った語句を並べると、フェリクスの背を悪寒が這い上がっていった。


  (4月11日……、神官フェリクスと神官イアンシル……、死……)


 フェリクスは呆然と、繰り返した。


  (死……。
   <帝国>に囚われてしまった私が死んだと思われるのはわかる。
   だが、まさか、イアンの身に……?)


 イアンと別れた時のことが思い起こされる。
<七つ村>への<使命>の途中、フェリクスとイアンは星が落ちた衝撃に巻き込まれた。


  (<七つ村>は、あの光のせいで消滅してしまった。
   あの辺りには元々、人も寄り付かない。それに、あの夜は雨が降り出していた……。
   雨の後、あの崩れた山道を進むことは、きっと困難だったろう。

   もし、<法王庁>からの救助も遅れたとしたら……?)


 恐ろしい推理に、フェリクスは身震いした。


  『すまんがそれが限界だ。それ以上、<帝国>に近づく<使命>は通せなかった』

  『お前が<帝国領>での使命にこだわりすぎている事は、問題視されている。
   ――そろそろ教皇様のお耳にも届くかもしれんぞ』

  『……。はっきり言わないとわからんのか。お目付け役としての<使命>、だ』


 なんだかんだ言っても、結局最後までフェリクスの世話を焼いてくれた。
彫りの深い精悍な横顔。あの、心の奥底まで見抜いてしまうような、空色の鋭い瞳。


  「ああ、イアン! 君は、足を怪我していたのに……!
   君を……、君をあの場に、置いていくべきではなかった!」


 フェリクスは呻き、まるでそれがイアンの亡骸であるかのように<紙片>をかき抱くと、
強く、強く胸へと押し当てた。